コラム

第9回「みんなの心を大事にしたい」

撮影:渡辺悟

執筆/社会福祉法人わこう村
   和光保育園 副園長 鈴木秀弘

うめぇジュース屋さん

 夏の到来を感じ、園庭のデッキの上へ葦簀(よしず)を吊っていると、縁側から「いらっしゃいませ~、梅ジュース屋さんで~す」と、賑やかな声が聞こえてきました。

 どうやら、先日収穫した梅を漬け込んだシロップが、良い頃合いになったので、4歳児を中心とした人たちが、皆にも振舞ってくれるようです。

 その声が届いた子から順番に、人だかりができ、あっという間に長蛇の列になりました。

 振舞うほうも、梅ジュースを飲むほうも、うれしそうに笑顔が交差し、ガヤガヤと賑わいが、また次の来客を招きます。

 賑わいが落ち着いてきた頃、私もご相伴に預かりましたが、印象的だったのは、私に梅ジュースを手渡す子の表情です。

 渡しながらにもう“ヒデさん『おいしいっ』てよろこぶぞ”といった感じの期待が染み出た目をしています。

 私はその期待に応えるというよりかは、私自身の内からも、『おいしいっ』で響き合いたいという気持ちが込み上げてきて、飲むや否や「おいし~い」とか「畑の土の匂い、子どもたちが梅をもぐ手、そして、瓶越しに見える、子どもたちの遊ぶ姿を感じる甘味ですね~」なんて、ちょっとソムリエっぽくリップサービスまでしたくなって。そしたら、それを聞いていた子どもたちが、「いみわかんな~い」とゲラゲラ笑って。梅ジュース1つで、なんだか幸せです。

 さて、その賑やかさが去っていった縁側に、梅ジュース屋さんで使われたテーブルが1つ、先ほどまでの賑やかさの余韻を纏いながら置いてありました。そこへ、2歳児のKくんが、部屋から、おままごとのコップとお椀に布の素材を入れて持って来ました。

 私は、梯子の上で葦簀を吊りながら、先ほどまでの余韻を感じているのは、私だけではなさそうだな~と、その動向を見ていました。

 すると、Kくんは、テーブルにコップとお椀を置いてから、ちょこっと座りました。Kくんは、座って何をする訳でもなく、しばらく外を眺めていたのですが、私はいてもたってもいられなくなって、作業の手を止めて梯子を降り、Kくんの元へ行って、「すみません、ここら辺に、美味しいジュース屋さんがあるって聞いたのですが?」と、遠慮気味に声をかけてみました。すると、Kくんはニコニコしながらも、少し戸惑ったような素振りで周りを見渡しました。その様子を近くで見ていてくれた担任のYさんが、「Kくん、ヒデさんがジュース飲みたいみたいだから、ジュース作ってあげられる?」とKくんに提案してくれました。すると、腑に落ちたような笑顔をニコッと見せ、持っているコップを、私に差し出してくれたのです。

 それには、私もうれしくなって、またまたオーバーアクションで「ごくごくごく」とジュースを飲みほして、「うっめぇ!」とKくんに見せたら、Kくんは一段とうれしそうに、今度はお椀を差し出してくれました。

 そんなやりとりが、周りにこぼれだし、ほかの子も部屋からコップや器を持ってきて、私に振舞ってくれます。なんだか、先ほどまでの賑わいと、地続きに繋がっている物語のように感じてやみません。

 もしかすると、Kくんは、ただ佇んでいただけで、「ジュース屋さんの真似をしよう」という意識ではなかったのかもしれませんが、私には、Kくんが、賑わいの余韻を感じていたように見えたのです。

 もし、そうでなければ、私をうっとうしくあしらってくれてもよかったのですが、Yさんの支えもあり、ジュース屋さんごっこを共に楽しめた感覚を信じて、さらに想像をするならば、Kくんの中で、ジュース屋さんの賑わいで感じていた印象の塊と、今、ジュース屋さんごっこで響き合った感情の塊が、ジワジワ~っと膨らんで繋がったような気がしたのでした。

梅もぎから地続きに繋がった時間が梅ジュースには詰まっている

目に見えない心と向き合う

 マインドフルネス講座の第4回、最後のレッスンのクライマックスで、「愛を届けるワーク」を行いました。詳細は、保育ナビ2022年2月号連載をご覧いただくとして、概要としては、互いに向かい合って、片方の人が、相手に無言の愛を届けるという内容です。30秒程の時間の中で、視線や表情、手のしぐさ等、それぞれの工夫で愛を届けようとします。

 私は、人数調整もあり、職員たちの輪から外れて、特別に最後に職員皆から一気に愛のメッセージを頂いたのですが、この時、私は、皆からの愛を受け取るために、一人ひとりの表情や姿勢を見ながら、一生懸命に、皆の心を、私なりに(主観的に)感じようと努めていたことを、後から振り返って思い出します。

 愛というと、少し照れくさい言葉でもあり、普段から意識して用いることはありませんでしたが、皆からの愛を大切に受け取るには、受け取り手の私自身が、逆に、職員の皆を信じて、自分に向けて送られてくる愛を素直に受け取る心構えが必要なのだと感じたのです。

 受け取った愛は、うまく言葉にはできませんし、してはならぬようにも思いますが、心が満たされて身体全体が活性化されたような温かさ、熱さが湧いてくるような感じがしました。

 私は、思わず、職員に「ありがとう」を伝えたくなったと同時に、この機会をつくってくださった、真理奈先生、そして、担当編集者のNさんに対しても、みんなで愛を送りたくなり、提案させていただきました。

 私も、皆の輪に加わり、真理奈先生やNさんに、私なりの愛を送ったのですが、何故だか不思議と、職員たちとの一体感のようなものを感じ、その場全体が温かく、熱く、融和的なものになり、1つの高エネルギー体になったような感じがしました。

 ワークの後に届いた職員からの声の中にも、私と似たような感じ方をしていた人がいて、真理奈先生 やNさんも似たような感覚をお持ちになっていたと聞きました。そう思うと、それぞれの主観において、感じ方に差はあったとしても、このワークによって、そこに居た人たちの心が融和的に開かれ、身体の細胞が活性化して生まれたエネルギーが、響き合っていたことは間違いありません。

同じ水の温み、揺らぎに身を置きながら

加持(かじ)

 この経験を振り返った時、保育に通ずる大事なメッセージを、「加持(かじ)」という仏教の言葉を用いて整理したくなりました。

 「加持」という言葉は、仏教の中でも密教で用いられる言葉ですが、お正月等に護摩祈祷で、交通安全や家内安全・身体安全等のお願いを、お札を作ってお祈りすることを「お加持してもらう」とか「加持祈祷」と言います。つまり、多くの人が、仏さまの力で“守ってもらう”とか、願いを“叶えてもらう”という印象を抱いているのではと思いますが、それは大きな勘違いなのだそうです。

 その「加持」について、弘法大師空海の「即身成仏義」を引いて、松長有慶大僧正は次のように説明しています。

 弘法大師は「即身成仏義」という書物の中で「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい(お日さまの影が生きとし生ける衆生の心の中に現れてくることを加といい)、行者の心水能く仏日を感じるを持という(私たちの心の働きがよく仏さまの日を感じることを持という)」と説かれています。中略

 仏さまが影を私たちの心に映すことが加であり、それに対して私たちの心が仏さまの影を映して感じとることが持ということなのです。ですから加持というのはこの二つの力が一つになってはじめて成り立つのであって、まかせっ放しではだめなのです。向こうから伝わってくる力を感じて受け取ってはじめて感応が成り立つのです。(『秘密の庫を開く「密教経典」』松長有慶、集英社)

 これは、私が(無言で)愛を届けるワークの時に、職員の皆から愛を受け取る時に感じた感覚そのものです。言葉を交わさずに、無言のメッセージが、皆の心から、私の心へ送られてくるのですから、私は、その伝わってくるメッセージを、自身の心で能く感じ応えようとしたのです。

 Kくんとの響き合いも、正に加持です。Kくんの行動に秘められた心の動きをメッセージとして、私の心で能く感じ応えていく。Kくんの担任のYさんも、私の働きかけの真意に感応してくれました。

 そして、Kくんと響き合えたのも、単にジュース屋さんごっこが楽しいという平板なやりとりではなく、「そうそうこれこれ!」みたいな、心が感応し合った深みがあったように感じます。

砂浜が映す波の足跡を感じ、シャッターを切る

 保育は、特に、言葉によって分別される前の世界を生きている子どもたちと、共に暮らしを創っていく営みですので、子どもたちの言葉に言い表せない想いを、メッセージとして感じて受け取り、応えていく力が、最も必要なのではないかと思います。

心の根っこにアクセスし感応する

 最後のレッスンを終えて、早いもので10か月が経ちます。読者の皆さんの中には、マインドフルネス のレッスンを受けて、職員がどのように変化していったのかが、気になるという方も多いのではと思います。

 結論から先に言いますと、マインドフルネスのお陰で、このような変化(効果)がありました、と報告できる具体的な事例は多くありません。

 しかし、職員の中に現れている以前とは異なる、変化の兆しのようなものは、私の主観ではありますが、少しずつ感じ始めています。

 その1つに、ある職員会議で、煮え切らず、消化不良のまま終わらざるを得ない議題がありました。それに対して、職員の中から「やっぱり納得いかないからもう1回話し合いましょう」とか、「会議では言えなかったんだけど、私はこう思っています」と、持ちかけられることがありました。そして、その提案に応え、もう一度、同じ議題を会議にかけると、それぞれが、いろいろな立場から発言してくれて、私の視野の狭さに気付かされることも多く、皆の中での納得解というのは、なかなか難しいのですが、諦めず言ってよかったという感覚が、それぞれにあったのではないかと感じています。

 また、ある人の言葉のチョイスを巡って、「その言葉は上から物を言うように聞こえる」というような確かめをしているうちに、子どもや親とかかわる時の立ち位置を、「上ではなく、皆が繋がっている根っこの部分に居ながら、自分がどう振舞えば、滞りが解消されるのか?って考えている」という職員の視座と出会えて、私も興奮して「森の植物は、それぞれ独立しているように見えるけど、実は、地面の下で菌糸によって繋がっていて、コミュニケーションをしているらしいよ。私たちの仕事も、同じように、地面の下の繋がりにアクセスし、感応していくことが大切なんだね」なんて会話も生まれてきています。

 そう考えれば、Kくんのエピソードも、私とKくんが、独立しているようで、実は、見えない心の根っこで繋がっていて、担任のYさんも、周りの子どもたちも皆繋がっていて、その繋がりを感じ、確かめ合い、喜び合うような出来事だったのかもしれません。

みんなの心を大事にしたい

 私のように、愛という言葉を用いることに照れくささを感じている人が多いように想像します。似たように、心の問題を扱うことも、恥ずかしさやわかりづらさをはらみ、表に出づらい雰囲気をもっています。また、精神論だけではどうしようもできないといった感じに、軽くあしらわれるような気風を感じることもあります。似たようなところで言えば、幸福という言葉も、フワフワしていて楽観的なものとして扱われることが多いように感じます。

 似たように、マインドフルネスも、常に心が穏やかにあるように、すべての物事を美しく感じ、清らかにあらねばならないと思い込んでいる人が多いように感じます。一方で、私たちが陥ったように、呼吸を整える時間がもてないとか、何も出来ていないといったような、現状を否定的に捉える視点も根深く、また、マインドフルネスの効果ばかりを期待しすぎる人も多くいるように感じます。

 似たように、保育の現場でも、形に現れるものや、量で計れるものは、わかりやすく、だれもが共通に理解できるので、重宝に扱われているように感じますが、子どもや、保育者、保護者の“心”がなおざりにされてしまっていることが多いように感じます。

改めて、私は、この企画で、和光保育園の職員がマインドフルネスによって変化することを期待していた訳ではなかったという、原点に、今再び立ち返ることができました。

 私は、この企画を通して、和光保育園の職員や、子ども、保護者の皆さんの“心”を大事に、感応し合う関係を創っていきたいと、意志表明をしたかったのです。

まとめに代えてご質問

 真理奈先生とのマインドフルネス心の旅日記も、終盤にさしかかりました。もしかすると、私よがりの旅日記になってしまったのではないかと思うところもありますが、改めて、真理奈先生のお気持ちを聴いてみたくなりました。

 私は今、日々の私自身の心の在りようや常態と向き合う、もう1人の自分(自分の心を観察している自分)がいますが、決して、怒りの感情も、不安も、悲しみも、苦しみも、心の中から消えず、今日も、刻々と変化しながらも居座って(座ってはなく、歩いているかも)います。もちろん、その感情に覆いつくされてしまうのではなく、上手に付き合うことを心がけていますし、そうできているように感じます。

 真理奈先生はいかがでしょうか? マインドフルネスの神髄にいらっしゃる真理奈先生の境地では、日々生まれ出てくる感情と、どのようにお付き合いされているのですか?

 本コラムの締めくくりを、真理奈先生への質問に代えさせていただきつつ、次回コラム(最後のコラム)でも、いくつか質問をさせていただければ幸いです。

※次回は、鈴木先生のコラムを受けて、戸塚先生が執筆します。お楽しみに。

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