コラム

第6回 「認め、開放するということ」

撮影:渡辺 悟

執筆/一般社団法人heARTfulness for living協会 
   代表理事  戸塚真理奈

「できてない」に目が向く

 前回のコラムで鈴木先生がまとめてくださったように、3回目の研修に先立って行われた中間報告会では、「犬の散歩の朝の時間、呼吸を深めて、歩みに意識を向けてみた。木々の緑がなんとなく鮮やかに見え、ゆったりした時なのだけれどあっという間に過ぎた、そんな気がした。そこでマインドフルネスの実践ができていたかはわからないけれど……」とコメントしてくださった先生がいました。まただれかとの対話において傾聴するマインドフルワークを実践してみた先生たちもいました。

 しかしながら、同時に多くの先生からは「そもそも忙しさで気持ちがパンパンに張り詰め、それぞれが日々走り回っている。保育の話すらできていない」「本当は(ありのままの自分の姿で)立ち止まりたい時に立ち止まったり、だれかに任せたり、悩みを打ち明けたり、そんなことをしたいけれど、実際にはできていない」というお話が出ました。

 多くの先生方の中で、マインドフルネスが大ごとになってしまっていて、「できていない」に目が向いてしまう状況が起きていました。研修という名のもとで学んだ内容が、自分ごとに落とし込めていないことに罪悪感を感じている様子を受け取りました。このひとつ前のコラムでも、鈴木先生から、講師である私のためにある程度習得したり、成果を出したりしないと、と気負ってしまっていた部分についてお話が出ていましたね。

 でも本当は、「保育の話すらできていない」ことよりも「忙しくて気持ちがパンパンに張り詰めてしまっている」という今の気持ち、そして、立ち止まったり任せたり打ち明けたりしたいなあとの願いなど、自分の内側に起きていることに気がつけている(=既にマインドフルである)のです。

蒸し暑い午後に、みんなで坐る

相手も自分も誇らしい、を体感する

 第3回目の研修では、マインドフルネスが目指すことをもう一度整理することにしました。人は課題を完了したり一定レベルに到達したりすることに向けて走ることでモチベーションを高めることもできますが、同時にそこにばかり目が向くと、「道のり=Journey」そのものを楽しむことができなくなってしまうものです。もし「できていないこと」ばかりに目が向くのなら、もしかしたらその背景には自己批判の目や、できていることを認めることへの躊躇、また場合によっては、集団の中だからそういった遠慮や躊躇が起きているといったこともあるのかもしれません。そのあたりにみんなでしっかりと目を向けて、「みんなごと」としてテコ入れを図る機会につながれば、との願いのもとでプログラムを組みました。

 当日は、自主的に試してみたことや気づき、感想をまるで食堂のテーブルに並べるように、先生方に次々と発表してもらいました。できていないことやそのジレンマについても併せてお話ししてもらいました。そして、「Journey(旅路:このコラムのタイトルにもまさに「旅日記」とあります)そのものを楽しめているか」の問いかけをしながら、この研修の目的が、我慢する力をアップさせることや、感情のコントロール、(より良い集団をつくるうえでの)「正解」を目指すことを目的としているのではない点を今一度みんなで確認しました。

 私の研修では、エネルギーを主人公としてテーマ立てをすることが多いのですが、この日は「認めること」と「開放すること」を主軸にしました。当日、行ったワークは次の2つです。

 ワーク たくさんほめる

  ①相手の良いところをほめる
  ②自分の良いところをほめる  

 (ワークの詳細は『保育ナビ』2021年11月号誌面をお読みくださいね!)

 このワークは、自分ができていることをそのまま認めることから起こるうれしさや誇らしさを体感してもらえるよう、意図しました。お互いの素晴らしさを認め、ほめ称えることは日常ごととしてできるものですが、こと自分自身について同じことをする時に、どうしてもためらいや遠慮、「そんなことを口に出して言うべきではない」というジャッジが起こるものです。そういった無意識に意識の目を向けて、ついやってしまっている思いグセに気付くことを目指しました。そして、自分が考える自分の素晴らしさと、相手が考えてくれる自分の素晴らしさが異なることもある(そして、それらのどちらもが自身と相手の中に確実に存在していて、どちらも素晴らしい)ということを実感してもらいました。

相手も自分も同じようにほめる

真の語り合いは、肚のうちを見せあうことから

 「認めること」がどのような感覚を自分にくれるのか体感した後で、次はそれをベースとして、この日のもう1つのテーマ「開放すること」に残り時間をすべて費やすこととしました。

 この語り合いにおいては、参加者皆さんに少しでも「輪と自分自身の関係性」を感じてもらえるよう意図していました。前回のコラムで鈴木先生もお書きになっていたように、集団と個人の関係には、「輪の一員である自分自身という存在」と、でも、「ただ輪の中に溶けてしまうのでは輪自体の世界が成り立たないということ」の両面性があります。

 職場仲間の輪には、智慧が溢れています。そして、それぞれの気持ちや感性や、日々の暮らしの中での経験も詰まっています。単なるおしゃべりタイムではなく、また講師のリードについていくだけでもなく、自発的に問いを投げかけたり、気持ちを皆にシェアをしたりする時間には、そういった輪の智慧からの恩恵がもたらされるのです。

 このような時間においては、ただ輪全体と輪を構成する自分自身に集中しながら魂レベルで話し、つながり合うのがいちばん大切なことであって、講師や資料は必要なく、上手に話すことや、だれが順番に口を開くのか空気を読むといった心配も不要です。日々の業務的な話題ではなく、そうやって核の部分で結び付き合うところから、集団のエネルギーは自律的に動き出すのだと信じ、私もマイクを畳の上に置かせてもらい、輪が動いていくのに任せ、その場全体を静かに感じとることに専念しました。和光保育園はお寺が母体の保育園なのですが、当日お堂を会場として使わせていただいたことは、参加者全員で車座になり語り合ううえで、これ以上望めない設えとなったように思います。

 胸のうち、肚(はら)のうちにもっているものを一人が場に預け始めたことをきっかけに、また一人、また一人と想いがひらかれてゆきます。先輩・後輩というところを超えて、互いに弱さも持ち寄り、涙を見せ、悩み合い、沈黙にもふれて、第4回のコラムで書いた「根っこ」の部分にじっくりとつながる時となったように思います。

 その後、園では「もっとみんなで自分の気持ちを大切にして、互いに語り合う時間をもちたい」との要望が一部の先生からあり、今度は自分たちだけで、このような語り合い・悩み合いの場をもったそうです。

 その日、その日、その時、その時、今日のことで精一杯なのだと打ち明けてくれていた先生たちの中から、これからはもう少し自分たちの気持ちを大切に扱おう、子どもたちのためではない、自分たちにとっても心地よい保育をつくろうと提案があったということを聞き、あの蒸し暑い6月の晩に、輪のエネルギーから自ら少しずつ動こうとする“意志”が生まれたのかもしれないと感じています。

※次回は、戸塚先生のコラムを受けて、鈴木先生が執筆します。どうぞお楽しみに!

第7回コラムはこちら↓
第7回「マインドフルな対話(語り合い・聴き合い)がしたい」

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