撮影:渡辺悟
執筆/社会福祉法人わこう村
和光保育園 副園長 鈴木秀弘
感情がぶつかり合う
早春のお昼時の園庭で、早く食べ終わって、遊んでいる5歳児らの中当ての輪の中から、大きな泣き声が聞こえてきました。園庭中に響き渡る泣き声に、ただならぬ想いを感じ、どうしたものかと遠目から様子をうかがってみるのですが、なんだか、子ども同士でゴニョゴニョと言い合いが始まっていたので、少しの間、様子をうかがうことにしました。同様に、担任のAさんも、園長も、縁側で子どもたちと一緒にご飯を食べながら、それぞれの間合いで、様子をうかがっていました。
その内に、情報屋のO君が、「ボール蹴られるのが嫌だったんだって」と、私に教えてくれました。どうやら、M君が、外野のEちゃんに当てられた腹いせに、ボールを蹴ったのが、Eちゃんにとっては嫌だったのだそうです。
それで、お互いに、言い合っているうちに、「いつもMは〇〇じやん」「Eだって、いつも……」と、過去のわだかまりまで噴出してきて、お互いに感情的になってしまっているようです。
そんな、言い合いを聴きながら、担任のAさんは、「最近、手は出さないけど、強い口調で、言い合う機会増えたよね」と。もう1人の担任Yさんは「しかも、言い合っているうちに、過去のことまで掘り出してきて、あの時……って、言うもんだから、論点がずれていっちゃうんだよね」。Aさん「でも、この間は、ほかの子が『今はその話じゃないでしょ』と引き戻してくれてたよ」と、こんな話をしています。
私も、ここ数日で、何件も年長児の言い争いに出会っていたので、「どうして、卒園を目前としたこの時期に、言い争いが絶えなくなっているのか?」と考えたくなりました。
子どもたちの、言い争いを見ていると、言葉を暴力的に使い、まるで、相手を威嚇しているようです。相手を、とことん否定して、自分を正統化しているようにも見えます。それが、お互いに投げ捨てられるもんだから、相手の口調に対抗して、段々とお互いに、怒りが込み上げてきてしまい、ついには、その怒りの輪に引き込まれる子も出てきて、怒りのエネルギーが最高潮まで達していきます。
この日も、お互いに感情同士がぶつかって、たくさん時間を使って、出すだけ出した後に、Eちゃんの味方になっていた1人の子が、唐突に「ごめんね」と呟きました。M君たちは、Eちゃんにも「ごめんねって言ってよ」と促しますが、Eちゃんは「いつも私たちが謝ってるからヤダ」と。
すると、M君の味方についていた子の中からも「ごめんね」と呟く子が現れました。でも、M君とK君は、「ぜったい謝りたくない」と言っています。Eちゃんも「謝りたくない」と改めて表明します。
また、互いに譲らない均衡状態が生まれました。しかし、とうとう、痺れを切らして、M君がK君に「ジャンケンで負けたほうが先に謝ろう」と提案します。その提案にK君ものり、2人でジャンケンをすると、K君が負けました。
しかし、K君は「やっぱり言いたくない」と、言い始めます。それには、M君も、「負けたほうが言うって決めただろ!」と言いますが、なぜか、K君は「言いたくない」と頑なになってしまいました。また、しばらくの間があって、M君は「じゃあ俺が、グー出すからさ」とだけ言って、もう一度K君とジャンケンをします。K君は、黙ってパーを出し、M君が負けて、Eちゃんに対して、照れくさそうに「ごめんね」と言いました。すると、すかさずK君も「ごめんね」といいました。それを受けて、Eちゃんも「ごめんね」と。
相手への信頼があってこそ
「ごめんね」という言葉が重要なわけではないように思います。しかし、この言い争いを、もうそろそろ終わりにしたい。だから「ごめんね」で句点を打ったのです。
だから、句点が打てれば「ごめんね」でなくてもいいわけで、M君にとっては、ジャンケンで負けたほうでも、勝ったほうでも、言い出すきっかけが欲しかったわけで。K君は、自分が一番に言うのが嫌だったわけで。Eちゃんも、自分が先に言うのが嫌なだけだったわけで。だれもが、そろそろ、“終わりにしたい”という気持ちが、揃ってきたタイミングだったのだと思います。
そんなやり取りの一部始終を見届けながら、Yさんが「こんなに感情を包み隠さず吐き出せるって、相手への信頼があってのことよね。だって、あの子たち、人を選んでいるよ。小さい子には、あんな言い方しないもの」と話してくれました。本当にそう思います。
そう考えれば、卒園を目前にしたこの時期に、自分の感情を抑えることなく吐き出し合う子どもたちは、この子なら“聴いてくれる”“受け止めてくれる”という信頼関係のもとで、より繋がりを深めるために、最後の最後まで微調整をしているのだな、と見えてきました。
それは、共に暮らしを創ってきた、共創者としての繋がりです。その繋がりは、目には見えないのだけど、確かに繋がり合っている感覚として、彼らを結んでいるのだと思います。
彼らは、その繋がりに抱かれながら、安心して言い争っていたのだと思います。そして、その繋がりが、最終的に、言い争いを収めていったのだと思います。
マインドフルな対話(語り合い・聴き合い)がしたい
和光保育園では、ちょうどマインドフルネスの企画が動き始める頃に、今まで自分たちが信じてきた保育を、改めて、疑い直さなければならない出来事が起きました。決して、慢心していたわけではないのですが、自分たちだけでは気付けない落とし穴が、生まれてしまっていたことに気付かされたのです。
かねてから、閉ざされた思考に陥らず、開かれた学びをしていきたいと考えていましたが、自分たちの範疇をさらに超えて、とことん自分たちの保育を疑ってみる機会を得ました。
そのことは、私たちの保育を新たなステージに向わせてくれる推進力となったことは間違いありませんし、自分たち自身も、この機会を活かせるように努力をしました。
しかし、一方で、同時に、大きな不安も生まれていました。その不安の出処は、言うまでもなく、“疑う”という行為から来るものです。自分たちが信じていたものを大きく揺さぶっているのですから、不安定にならざるを得ません。また、他者の意見を傾聴する機会も多くなりましたので、新鮮な風が吹き込み、更新のチャンスにもなりましたが、風を取り込みすぎてしまうと、自分たちの主体性(ここにいる感覚、生きている感覚)すらなくなってしまうのではないか? と、不安が生まれ始めていました。
ちょうど、マインドフルネスの研修の第3回~第4回の間のことです。保育士のTさんが、このような状況に鑑みてボソッと私に、「今こそ、もっと本音を語り合える時間が、必要なのかもしれない」と呟いてくれたのです。
もう少し詳しく話を聞いていくと「自分たちの凝り固まった思考を更新しなければならないのもわかる。今までを疑わなければならないのもわかる。でも、なんだか、心の中のモヤモヤが大きくなってきてしまっていて。このままでは、和光の保育が無くなってしまうんじゃないか? どこに行っちゃうんだろう?って心配になる。多分、私以外の人たちも、多かれ少なかれ、そういう不安があるんじゃないかな? もしかしたら、私だけかもしれないけど、でも、どちらにせよ、みんなの心の内を聴いてみたいんだよ。」と語ってくれました。 私は、その瞬間にビビビっときて、「Tさんが今求めているのは、まさに、マインドフルな対話ってことなんじゃない?」と返しました。
それから、2人で、この状況下で、職員同士が本音を語り合えるにはどうしたら良いのか?を考えました。そして、本音で語り合うためには、経験年数による感じ方や、見通し等の差異があること、そして何より、気心知れた関係、語りたいことの意味を十分に受け取り合える関係を大事にする観点から、経験年数毎の世代に分けて、グループ分けをして、それぞれの想いを聴き合う時間をつくりたいと、全体に提案をしました。
また、これに留まらず、マインドフルな対話の機会を、継続的につくり続けるために、話し合いの目的によって、語り(聴き)合う形態や規模を調節する必要性なども確認しました。
自分に向ける問い
改めて、正直なところ、私たちには、日々立ち止まって瞑想をする時間は、なかなかつくれないのが現状です。しかし、真理奈先生と共に歩んできた3回のレッスンと、8か月の期間の中で、自分たちの本音を大事にしようとする気運は高まってきているように感じます。
そして、その気運は、日々の子どもたちとの暮らしの中で起こる、様々な出来事に流れ込んでいます。
冒頭の事例は、タイムトラベルをした3月の話ですが、子どもたちが感情をぶつけ合う様子を見守る担任のAさんやYさんの会話から、子どもたちの本音を大事にしようとする姿勢がうかがえます。
そして、何より、子どもたちが、単に言い争っているのではなく、お互いを信頼しているからこそ、感情をぶつけ合えるという、子どもたちや、子ども同士の繋がりに対する信頼の眼差しをもっています。
私たちは、このような子どもたちの姿を目の当たりにしながら、自分自身のことを、また振り返ります。
果たして、自分は自分自身の本音を大事にしているだろうか? そして、自分の本音を大事にするように、仲間の本音を大事にすることが出来ているだろうか?と。
こういう問いが出来るようになったことが、マインドフルネスからの恩恵なのではないかと思います。一人ひとりの本音を大事にしようとすれば、当然矛盾も多く生まれますが、その矛盾こそが保育園全体の<いのち>をダイナミックに動かしていくのだと思います。
※次回は、鈴木先生のコラムを受けて、戸塚先生が執筆します。お楽しみに。
第8回コラムはこちら↓
第8回「視座を上げ、愛を発する」