コラム

第1回「改めて、なぜマインドフルネスに取り組もうと思ったのか」

撮影/渡辺 悟

執筆/社会福祉法人わこう村 
   和光保育園 副園長 鈴木秀弘

はじめに

 本コラムは、保育ナビ5月号人材育成ミニ特集「保育チームで始める 初めてのマインドフルネス」や、同号連載ページ「実践マインドフルネス 一人ひとりの良さが現れる、活かされる」、同誌8月号、同11月号で掲載されている内容を補足することで、読者の皆さん一人ひとりに、マインドフルネスの実践を、より身近なものに感じてもらえるよう期待が込められたものです。
 毎月、私、鈴木秀弘と戸塚真理奈先生が交互に執筆するという形式で進んでいきます。

本当の自分の所在

「ヒデさんは本当の僕を知りません」。これは、ある職員と居酒屋で一緒に飲んでいる時に投げかけられた言葉です。たしか、“保育園で働いている時に見せる自分とは違う自分がいる”というような意味合いだったと思います。その前に、私から彼に対して、「あなたの今のそのままが、保育園全体になんらかの影響を与えている」というようなことを言ったことに対して返ってきた言葉のように覚えています。


  私の中では、そうやって彼の存在そのものを肯定したつもりでしたが、その時の彼にとっては、“保育園での自分は意識してつくっているもの”で、彼自身が“本当”と思っている自分の所在は、保育園以外の所にあるということを、改めて伝えずにはいられなかったのです。

 そういう彼の気持ちは、なんとなくですが私にも理解ができましたから、そうだろうと共感しながらも、「どちらが本当というわけではなく、どちらもあなたにとって大切な本当の自分の一部分なのではないかと思う」と伝えました。

 自分を隠し、保育園では真面目に働いているけど、背伸びをし続けるのはしんどいと感じていたのだと思います。

 この会話は、9年も前のことですが、今でも心の中にこうやって残っているのは、この9年間の私自身の課題と重なり合うところがあったからなのだと思います。

 彼が、“本当の自分は保育園の外にいる”と表現したくなったのは、和光保育園という職場が、彼の存在の全体性を認められる場ではないということです。つまり、和光保育園として期待する“保育者像/人間像”の範囲があって、その枠に収まる部分は、和光保育園の中で活かすことができますが、収まらない部分は保育園の外に置いてくるということです。

 和光保育園としては、子どもが育つためには、子どもの周辺に様々な人格をもった人が多様にいる必要があると考え、職員一人ひとりの個性を大事にしたいと常々考えてきましたが、言うは易く行うは難しで、実際に働く職員にとっては、好ましいこととそうでないことが、空気感として確かに存在しているのだと思います。

 確かに、生活も環境も、子どもにとって、より善いと想うことに拘ってつくってきた経緯がありますので、善かれとされるものの反面には、必然的に否定される価値観も生まれてしまうわけです。

 それを、押し付けることはしなくとも、その雰囲気を察知して、自ずと好ましい姿に寄せようとしていることが、彼の言葉に現れていたのだと思います。今流行りの言葉でいえば忖度です。

シャッターの向こう側で、保育者には見えない世界が繰り広げられている

全体性が生き合う職場に

 彼は、“世間一般的な保育者”らしくはない保育者なのかもしれません。ひらめきを頼りにしていて、計画性が薄く、生活の中で、見落とし、やり残しがちょっと多い。周りの職員からしてみると、期待の中に収まらないことが他人と比べて多いかもしれません。

 私は、彼の先輩として「もっとこうしたほうがいい、ああしたほうがいい」ということも言えなかったわけではないのですが、どうも言い切れなかったのは、私自身も、彼と似たような気質をもっているからです。

 しかし、子どもたちにとっての彼は、最高の遊び相手ですし、保育園全体にとっても、彼の発想が、凝り固まってしまった思考を柔らかくほぐしてくれるのです。

 そんな、彼の持ち味が、存分に活きるような環境にしていきたい。それは、似たような気質をもった、私らしさも、存分に活きる環境を創りたいという願いと重なっていました。

 そして、同じように、職員全員が、枠の中に収まろうとするのでなく、一人ひとりの持ち味の全体性が活き、その運動の創発が和光保育園の輪郭を柔らかく創っていくようになれないものかと考えるようになりました。

 改めて、人間ですから、見せたくない部分はあって当然ですが、背伸びをせずに等身大でここに居られて、自らの心に正直で、互いの違いを尊び、その違いが影響し合って、補い合って、相互補完的に調和がとれている状態が理想です。

 自分が今やらなくても、出来なくても、だれかが補ってくれる。だけど、それが認められて一緒に暮らしていれば、周囲からの影響で、やってみたいと思う時が訪れる。そんな時は、臆することなく手が出せて、手が出せるってことは、喜んで譲れる関係がそこにはあって。もちろん、やる気にならなくたって、ほかのだれかが補ってくれるからいいわけで。  そうやって、じわじわと自分の内に潜んでいたものが職場に滲み出てきたり、花開いたりしていくように。

ここにいるわけがある二人が、園全体にくつろぎの姿として影響を及ぼし、居方のバリエーションを豊かにしている

まずは、自分に出会い、素直に受け入れる

 さて、そんな職場はまだまだ理想です。しかし、理想に向かうための手立てとして、マインドフルネスが有効なのではないかと考えました。

 私は、僧侶でもあるので、自分が心を崩してしまった時に、修行時代に行った瞑想(真言宗には阿字観瞑想法があります)を頼りに、自分の心と向き合った経験があります。

 それと並行して、様々なメディアでマインドフルネスが紹介されるようになってきた流れの中で、私自身も興味をもち、様々な書籍などで学ぶなかで、マインドフルネスが用いる言葉などの明瞭さに助けられ「なるほど、そういうことか」と、腑に落ちる体験が多くありました。

 私自身の実践の中で、呼吸を整えようとしても整わない状態や、集中しようと思っても全く集中できない状態が多くありました。始めは、そんな状態を否定的に捉えていたのですが、マインドフルネスでは、その状態そのものに気付くことの重要性を教えてくれています。

 詳しい説明は、保育ナビの誌面や今後の戸塚真理奈先生とのやりとりで深めていくとして、マインドフルネス自体が、“枠の中に収まる”のでなく、“自分自身と出会い、素直に受け入れる”ことから始まるものなのではと私は感じています。これは、私が描いている理想とかなり深く響き合うものと感じていました。

 また、私が理想を語り、体系化し、職員を導いていくのでは、私が作った枠組みの中に、職員を収め込んでしまいかねません。今ここから始まり、職員たちと共に、一人ひとりの持ち味が活き合う場を創っていくために、それぞれの内側から込み上げてくるような自発性をエネルギーとしていきたいのです。

 しかし、現状の私と職員たちとの関係では、私から発せられた言葉は職員たちにとっては“上から下に降りてきた言葉”という微妙な意味合いが含まれてしまっているように感じます。

 そこで、理想を私の言葉だけで語るのでなく、実践を共にしていくなかで、皆の中の一部分として、私も一緒に体感を重ね合っていく必要を感じ、良いご縁がないかと考えていたところ、保育ナビの企画と結ばれ、戸塚真理奈先生と出会うことが出来たのです。  幸運なことに、戸塚真理奈先生も、保育の現場と繋がりたいという願いをおもちだったと聞きました。また、この企画を結んでくださった、編集担当のNさんも、丁度この頃、マインドフルネスに興味をもたれていたとのこと。私だけの力だけでなく、大きなうねりのようなものが、“ここ”に流れ込んできているような気がしました。

子どもたちの楽しさが、痕(足跡)として顕れている

恵みのお裾分け

 マインドフルネスの実践をすることによって、それぞれが、自分自身と出会い、素直に受け入れていく体験は、即ち、自分が収まってしまっている枠を外していく作業でもあります。保育者として、担任として、副園長として、職業人として、父として、母として……ではなく、自分自身の心の中にある、感情と出会い、素直に受け入れていくのです。

 そして、枠組みが外れた上で、一人ひとりの持ち味を尊びながら、自分たちなりの実践を創っていくのです。

 今後、2021年10月から2022年3月まで、このコラムで、私たち和光保育園職員が体感していることや、変容の兆しを、飾らずに紹介していきたいと思います。

 とはいえ、変わることは目的ではありません。保育ナビ2021年5月号19ページ冒頭、タイトル下に、「業務のスキルや効率性・問題解決力などの能力よりも、人生の時間の質がアップする点にこそ、マインドフルネスの恩恵があると伝えています」と記されています。私の中でとてもしっくりきているのが“恩恵”という言葉です。自ら獲得するのではなく、恵みとして顕れてくるのだと思います。その恵みをお裾分けするような気持で、書いてみようと思っています。

※次回は、鈴木先生のコラムを受けて、戸塚先生が執筆します。お楽しみに。

第2回コラムはこちら↓
第2回「子どもと大人が育ち合うために、今を生きる」

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