コラム

第5回「旅そのものを楽しむ」

撮影:渡辺悟

執筆/社会福祉法人わこう村 
   和光保育園 副園長 鈴木秀弘

木を見て森を見ず

 ある冬の日の朝、お寺の大イチョウの枝の隙間から差し込む朝日に誘われて、ふと上を見上げたら、洞の中から、小さなビワの木が顔を出していることに気付きました。

 朝日を浴びた艶やかな葉を風に揺らしている様子が、なんともさり気なく、でもちょっと背伸びをして、「ここにいるよ」と言っているように見えてきて。思わず「そこにいたんですね」と応えて、とっても優しい気分にさせられて、私はふと、そのビワが芽吹くトキに思いを馳せるのです。

 小さなビワの木が、私が気付く程の大きさになるには、一冬二冬を過ごすくらいのトキがあったのだろうと思います。「その木が大イチョウの木の上にいるってことは、種がどこからか運ばれたのだろう?」なんて考えて、きっとカラスだろうな~と思うのです。

 種が芽吹くには、それを受けとめてくれる栄養のある土壌がそこにあるのだろうな~。

 木の上の洞の中に栄養のある土壌があるってことは、そこに様々なものが運ばれてきては積もって……を、繰り返してきたのだろうな~。塵、葉、鳥の糞、種、木の枝などなど、どれだけのトキやコトをついやして、その土壌が肥やされていったのだろうか?

 もしかすると、以前にも何かの種が同じように運ばれてきて、芽吹いて葉を広げて、なんてことがあって、でも大きく繁るには土壌の栄養が足りなくて、枯れて朽ちて土になって……なんてこともあったかもしれない。もう少し目線を上げてみると、榊(さかき)の小さな木も、欅(けやき)も、蔦(つた)も……、同じようにこちらを見降ろしていますから、そんなことが想像できるのです。

 私たちは、つい、目に見えている物ばかりを見ようとしてしまいます。だから、その小さなビワの木を見つけた時、「どうか大きくなってね」と、言葉をかけたくなってしまうのだけど、もしかしたら、その小さなビワの木だって、その土壌を肥やすための命なのかもしれない、なんてことを考えてみたら、私たちが本当に見なければならないのは、その「小さなビワの木」だけではなく、小さなビワの木の置かれている環境であり、森の繋がりなのではないかと。

 目に見えるのは、部分でしかなく、その部分は長いトキや、たくさんのコトが複雑に絡み合った仮の姿にすぎず、「木を見て森を見ないなんて」と、大イチョウや小さなビワの木や、小さな木々に教えてもらったような気分になりました。

 そう思えた時、子どもだって同じ、大人だって同じ、人間だって同じなのだと。そう思えてきたのでした。

目を凝らして見てみれば、様々な命が絡み合っている

旅路の現在地

 私たちは、マインドフルネス講座を、2021年4月までに2回行ってきました。前回のコラムでも書いたように、芽吹きのタイミングや形はそれぞれですので、感じ方の濃淡を大事にしながら、マインドフルネスに取り組んでいきたいと思っています。しかし、一方で、マインドフルネスと出合い取り組んでいる、それぞれの感想や、旅路の現在地を知りたく、一度立ち止まり、職員間で振り返りをしてみることにしました。ここに、職員の感想の一部を紹介します。

M:正直言うと、なんにも意識できていなかったのだけど、今日、保育中に感情的になって、怒りのテンションが上がってしまったけど、ちょっと落ち着こうと思えたのは、振り返ってみれば、マインドフルネスで学んだことが片隅にあるのかな? って今になって思います。

S:2回目の講習(4月10日)の後すぐに、トイレにコミュニケーションの4つの問かけを貼りました。貼ろうと思ったのは、自分を振り返る機会をつくりたかったから。後輩たちとの関係の中で、伝えなければならないことや、伝えたいことが増えてきたので、そこに優しさはあるのか? と常に意識したいと思ったからです。

A:Sさんが貼ってくれたものを毎日見ています。子どもと1日かかわっているなかで、焦っちゃう時に、トイレが切り替えの場になっています。

Y:最近は意識できていないな~と感じていますが、講習を受けたすぐあとは、タイミングについてすごく意識していました。でも、タイミングを見計らったり、必要か? と考えたりした結果、考えすぎて、あの時に伝えればよかったなと思ったことが何度もありました。そんなこんなでだんだん意識がフェードアウトしてきてしまっています。

I:すっかり忘れてしまっています。瞑想とか何もできていない。でも自分の気持ちが焦っちゃっている時に、「焦らなくていいよ」と周りの人から言われて、今までは、 “言われちゃった”と思っていたけど、最近は、“きっと私のことを考えてくれているのだろうな~”と感じられるようになりました。

O:Nさんがある朝、「いろいろ考えることがあって夜にぐるぐる頭が回っちゃったから、5分のワークやってくれませんか?」と言ってきてくれて(5分間“ただ聞くだけ”、聞き手は感想を伝える。2021年8月号参照)。私が聞き手でやってみました。すると、Nさんはすっきりできたみたいで、その日1日を気持ちよく過ごせたって言ってくれて。それで、今度は私自身が、もやもやしていた時に、そのもやもやが3つもあったから、Nさんに聞いてって頼んで。でも、5分じゃ無理だって諦めて長くしゃべっちゃって。そしたら、しゃべった後に、ぜんぜん整理ができていなくって。だから、もしかしたら5分に集約するための整理をすることで、自分にも落ちていくのかな? と感じました。

T:戸塚先生との講座は、普段は、気になっているけど流してしまうことに、立ち止まってどっぷりと戻る時間だったように感じています。しかし、それは、日常の中で、そこに戻るのがしんどいと感じていることだから、終わった後にどっぷり疲れてしまいます。

旅そのものを楽しむ

 私は、職員たちから話を聴くにあたり、このようなことを先に伝えました。

「皆さんを『マインドフルネス一緒にやろうぜ!』と強制的に引っ張ってしまうと、“やらなきゃいけないこと”になってしまいそうで、それは避けたいと思っています。だから、真理奈先生に種まきをしてもらって、皆さん、それぞれの心が動くのを待っているといいますか、それぞれのタイミングで“やってみようかな”とか“これってマインドフルネスと通じるかも”とか、“今までと違う自分と出会った”とか、そういう芽吹きを待っているところがあります。だから、私も含め、できない時はできないでいいのだと思っていて、そういうありのままを、みんなから聞けたらいいな~と思っています」

 そんな質問のせいか、上記のように「できていません」「意識していません」という、ある意味正直な返答が多く集まりました。

 しかし、真理奈先生にこの感想を伝え、さらにこれを基に、職員の代表者数名と真理奈先生とで中間報告会をした時に、真理奈先生から「マインドフルネスは、旅の目的地へ辿り着くことではなく、旅そのものを楽しむものです」と、心に刺さる言葉をいただき、私は、根本的な勘違いをしていたことに気付かされました。

 つまり、私は、強制的に引っ張ることを避けようとしながらも、職員たちからの“芽吹きを期待”しているところがあり、さらに、自分自身が、“真理奈先生が描いているゴールに近づいているのか”と、“真理奈先生からの期待”に応えられているだろうか? という評価スケールを勝手につくってしまっていたのです。そんな私の心情が、職員皆にも伝わっていたのだと思います。

 しかし、中間報告会で改めて真理奈先生からお伝えいただいたことは、私たち一人ひとりが、日ごろから心を動かしている時間が既にマインドフルな時間であり、それは、ささやかで、見過ごされがちではありますが、だれもが既に等身大で体感しているものなのだということです。その、旅そのものを楽しもうとするのか? それとも、未だ辿り着かない目的地へ近づくことに価値をもつのか? によって、今に注がれる価値(尊さ)が全く違ってきます。

上手く流すことよりも、花火のように溢れ出すことを楽しむ子どもら

周囲の期待に応えようとする癖

 このことから改めて気付いたことには、「私(たち)」は、ある出来事に対して、自分はどう感じているのか? ということ以上に、周囲の人(他者・世間)はどう感じているのか? ということが気になってしまう癖があるということでした。まあ、「私」は、「私たち」の中で生きていますので、全く気にしないのも偏っていますが、「私」が感じていること(自己評価)も、周囲の人が感じていること(周囲からの評価)も、どちらもバランスよく尊重できるようになりたいものです。

 でも、私自身は、「あなたはどう感じますか?」と他者から問われた時、つい「質問者の期待に応えなければ」と思ってしまう癖があります。これは、多かれ少なかれ皆さんの心の中にもあるものなのではないでしょうか?

 しかし、今回私(たち)が、マインドフルネスに取り組むのは、私自身がどう感じているのか? という問いを、真っすぐに自分に向けられるようになるためです。

 そう考えれば、職員たちの振り返りの中でも、怒りのテンションが上がってしまったことに気付けたMさんも、優しさがあるのか意識しているSさんも、トイレが切り替えの場になっているAさんも、タイミングを意識しているYさんも、「焦らなくていいよ」という言葉に感謝の念を覚えたIさんも、ぐるぐるやもやもやをなんとか整理しようとするOさんやNさんも、普段は気になっているけれど流してしまいたいことと、向き合うことがしんどいと感じたTさんも、だれもが等身大で、自分の感情と向き合うことができているということです。

 そんな、みんなの姿勢を、真理奈先生は「すてきですね」「なるほど」と聞いてくださり、そんな真理奈先生の姿勢に、私はハッとさせられたのです。

そのまま見る

 私が出合った、大イチョウの木の洞に芽吹いた、小さなビワの木は、その冬を超えることはできず、葉を落とし、洞の中の土壌に溶け込んでいきました。

しかし、その次の次の夏の終わりに、同じ洞の中から、別のビワが活き活きと葉を広げている姿に出合いました。

 私は、ふっと、前とは違う姿勢でビワの木と向き合っていることに気が付きました。それは、活き活きと伸び行くことだけが育ちではなく、また、果実を実らせることだけが成果でもなく。

 今、この(洞の)土壌のエネルギーが、ビワの種とかかわり、芽吹き、枝や葉へ流れ込んでいる。もしかすれば、それが榊(さかき)や欅(けやき)や蔦(つた)の種だったら、違ったかもしれませんし、種が置かれたタイミングや場所がズレていれば芽吹かなかったかもしれない。その一つひとつには、そんなに深い意味などないのかもしれないけれど、様々なことが複雑に絡み合って、今ここにビワは生きている。

 そうやって、起きていることを、私はそのまま見ていたのでした。

 もちろん、伸び行くことを願うことも、果実を実らせることを期待することも、生まれてくる感情として自然なことなのだけど、それだけではないということを知れて、想像ができて、一歩引いた視野で今ここにいるような気がしています。

※次回は、鈴木先生のコラムを受けて、戸塚先生が執筆します。お楽しみに。

第6回コラムはこちら↓
第6回「認め、開放するということ」

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